母のこと

終末期に入ってしまった母のこと

甥の結婚式

甥の結婚式で連休に九州への行き道に、母の故郷に立ち寄り、母の姉の叔母にも会いに行った。

叔母は、92歳で昨年より施設に入居中だ。

母より随分元気で、施設に入っている事も不服なようで、刑務所みたいだと文句を言っていた。

従姉妹は私より5歳年上で、小さい頃からよくして貰っている。

叔母はお酒も飲むし、肉食であるし何とまぁ元気な事である。

友達が差し入れてくれる、ビールやワンカップをこっそり飲んでいると、従姉妹が呆れていたけど、元気そうで本当に何より。

母の遺影にした写真を印刷して、渡してきた。

毎日話ができると、叔母は泣いていた。

一番仲のいい姉妹だったからと、また泣いていた。

施設を後にして、母の育った小さな島を訪ねてぐるっと回ってきた。

母の生家は、昨年更地にしたと従姉妹から連絡をもらっていたので、家の前に少しだけ車を止めて、持参した遺影に実家に帰ったよと話しかけたけど、新幹線で帰ってきていたはずなので、私の方が帰ってきたよだったのかな。

島は変わらず田舎だったけど、公園や駐車場が出来ていて、様変わりしていた。

昔はもっと道も広く、島も大きく感じていたけど、小さく感じるのは大人になったからかな。

 

結婚式には母の遺影と甥がペンダントに分骨している母も出席した。

披露宴も席を用意してもらい、写真とペンダントを座らせてもらった。

霊感なんてない息子が帰宅してから、ばあちゃんそばにずっとおったで!

いらんって言うのに、これも食べろあれも食べろってずっと言うてきてたわと言ってきた。

母さん、何で私には会いにきてくれへんのやろか!

皆んな夢に出てきたよって教えてくれるのに、私だけ母さんに会えてない。

いつか、会いたいよ。

本当の長いお別れ

葬儀の日が来てしまった。

とうとう母とお別れをしなければならない。

妹家族と、養子の甥の夫婦、私の家族だけの家族葬とは言え、喪主様と何度も葬儀場の係の方との打ち合わせがあるので、泣いてはいられない。

 

葬儀が終わり、最後のお別れでお花をたくさん入れた。

養子の甥はいつまでも泣いて、母の手を離さなかった。

娘は相変わらず軽く失神をしたりして、私はそれも気にしながら母に最期のお別れをした。

母さん、また会おうねバイバイと声をかけた。

 

葬儀場の目の前が、火葬場なので出棺してから数分で到着してしまう。

霊柩車のクラクションを、霊柩車の中で聞くのは父の時とで2回目だ。

なんであのクラクションはとても悲しい音がするんやろ。

そこからの記憶があまりないのだけど。

とにかくここから先には進まないでと言われ、お坊さんの読経が始まった時、大きな声で叫んでしまった。

「かぁさん!お母さん!!」と。

その声が合図のように、また娘が失神してしまい車いすに乗せられた。

そこからも記憶がなく、晴れた日だったのに空を仰ぐのも忘れてしまった。

母が空に昇って行ったはずなのに。

 

2時間後、母を迎えに行った。

白い箱に収められた母を連れて帰る前に、甥に抱っこさせた。

いつまでも泣いて遺骨を離さなかった。

 

この文章を打ちながらも、涙が止まらない。

もう49日も過ぎたから、残しておこうと思ったんだけど。

 

まだ今も、全部思い出すことができない、記憶に蓋をしている。

少し開けては、泣いてしまって動けなくなるので蓋をしている。

 

母さん、苦労ばかりだったけどごめんよ。

何も親孝行もせず、50過ぎまで母さんのそばで過ごさせてもらって、甘えてばかりでごめんよ。

母さんに会いたいよ、寂しくてたまらんよ。

 

新幹線チケット

湯灌が終わった時に、棺に思い出の品を入れさせてもらえた。

最後に山口行きの新幹線のチケットを胸元にいれた。

ずっと帰りたがっていたのに、連れて帰ってやれず後悔していた。

亡くなって、葬儀の打ち合わせが終わってすぐにチケットを買いに行った。

これは誰にも頼まず、自分で買ってきたかったのだ。

火葬場に行く時間に合わせて、海側の席を購入した。

お気に入りの、よそ行きのブラウスとスカートも入れた。

水島のコンビナート眺めながら、大好きな祭り寿司を食べて、祖父母の元へ帰ってくれたと思う。

チケットの事を話す前に、数年前に先に亡くなってしまった母の妹の従姉妹が、きっと今頃、山口で昔みたいに夜中迄、おばあちゃんや皆んなで話しているよと言ってくれた。

ブログのアイコンは、母の故郷の小学校の有名な桜の木だ。

来年の春には、桜の季節まで生きていれるかな?と言って間に合わず亡くなってしまった父と一緒に、花見をしてくれたらいいな。

お通夜の日①

令和5年11月21日㈫

 

昨日は、直接葬儀場に連れてきてもらい、一晩母とみんなで過ごした。

母と居られるのも、後2日になってしまった。

一晩中、母の枕もとで話しかけたり泣いたりしているので、夫に「お義母さん、寝られへんし、おちおち向こうへ行かれへんからやめときよ」と言われながら、母のそばに居た。

その晩、娘は痙攣し大事になった…もともと心に不調があると、倒れてしまうので想定内ではあったけど…

 

13時から、湯かんをしてもらい棺に納められる。

2ヶ月、お風呂にも入れず寝たきりだったので、気持ち良かったと思う。

私たちも順番に手伝わせて頂いた。

シャンプー、アロマオイルでマッサージもして貰って、お化粧して貰った母は遺影の写真より随分と若くなっていた。

なんだか、やっぱり眠っているようで、母さんと何度も呼んでみたけど変わらず目を瞑ったままだった。

家族葬とはいえ喪主である私は、ここからは泣いてばかりいられず、淡々と行事をこなしていく事になる。

旅立った日

主治医より死亡の宣告を受けた。

変わらず、何だか悪そうに頭を下げられた。

本当にお世話になりました、毎日様子を見て下さって、直接おでこに手を当てて下さって、母もきっとドクターの優しさに触れていたと思う。

父は、天涯孤独に近い人だったし、父方の知らせる親戚も居ないし、友達もいない人で、葬儀はしないと決めていた様で、妹にお金を渡して葬儀会社に申し込みをし、家に帰ってから火葬してくれと頼んでいた。

浄土真宗であったが、ほぼ無宗教な人で坊さんもいらんぞと言い残していたけれど、それはあまりにと思い、お坊さんにはお願いした。

母は、盛大にして欲しいと言うのと、お坊さんはどっちでも良いけど、スーパーマリオを1ゲームづつ、お焼香がわりにして欲しいと言う、変わった事を言う人だった。

葬儀社に連絡をし、お迎えを頼んである間、看護師さんが母を綺麗にして下さった。

お化粧してもらった母は、何だか眠っている様に見えた。

そこからは、目まぐるしく進んでいく事になる。

看護師さん達に挨拶をすませ、入院費の事を伺っている間に、お迎えが来た。

沢山の看護師さんに見送られながら、病院を後にしました。

最後、この病院で診ていただき、本当に良かった、ありがとうございました。

long goodbye 長いお別れ

アメリカでは認知症になる事を、long goodbyeと言うそうだ。

長いお別れ。

上手いこと言うなぁと、知った時に思った。

認知症と診断されて、約5年。

施設に入所して、コロナが流行り始めて、この3年程は、1ヶ月に一回の通院時の付き添いや、面会もタブレット越しだったりと、あまり会う事ができなかった。

昨年2月に尿路感染で入院した際は、面会に1人で行った娘が、話したよと言っていた。

話ができるのもそれが最後になって、そこから発語する事はなくなってしまった。

父の事で苦労し、甥を育てて実家の近くに住んでいる私の娘や息子の面倒も見てくれて、働いている私の為に、私の家の事も手伝ってくれて。

孫の行事には全て出席して、本当にお世話で明け暮れた人生だったなぁ。

少しづつ、忘れていかないと母も辛かったろうし、私達に心の準備をさせてくれたのだと思う。結局全然出来てなかったけど。

でも、父の様に癌が発覚して、3ヶ月であっという間に亡くなるよりもまだ、心の準備ができたのかなぁ。

発語が出来なくなってしまったので、よくあるどちら様って言われた事はなかったけれど、いつまで覚えてくれていたのかなぁと思ってしまう。

 

母さん、ほんまにありがとう。

来世があるなら、また母さんの子供でいたい。

私はまだしばらくこっちに居るけど、いつかまた、会える日を楽しみに。

母さんに会えると思ったら、死ぬ事も少しは怖く無くなるよ。

お別れなんて言いたくないけど、またね母さん、バイバイ。

 

療養型病院・入院42日目(急性期から75日目)

令和5年11月20日(月)

 

朝早く仕事に向かい、他の人が出勤するまでに、色々と準備をし、しばらく休ませて下さいとお願いする。

9時過ぎには会社を出て、病院に電話して面会を午前中からさせて貰えないかと相談してみる。

婦長さんが、主治医に聞いて下さり、朝からの面会も許可してもらい、人数制限もなくて良いとの事。

いよいよ、最後になるのかもしれないと、息子に電話をし一緒に病院へ向かう。

甥が次に到着したころには、母の血圧が下がり始め、皆を集めて下さいと言われる。

私の心臓も止まりそうな位、バクバクしてきて、息子と甥とで交互に話しかける。

母の好きだった曲を、耳元で流しながら、母に呼びかけた。

宇多田ヒカル小田和正防府おどり、X JAPAN

途中で看護師さんが、X JAPAN!かっこいいと言ってくれて、皆んなで笑ったね。

妹も到着した。

母さん、ありがとう!また母さんの子供で生まれたい、また会いたいとお礼をいった。

行かないでと言いたかったけど、今回はもう言わなかった、随分苦しかっただろうし、食いしん坊なのに、2ヶ月以上点滴で辛かったろう。

スーパーマリオの曲をかけたら、一瞬血圧が上がって、目を見開いて、力無く閉じてしまった。

父の時も、あの心拍のピーってなる音は、何かスローモーションになって頭の中が、真っ白になった。

また今回も、何だかドラマのようやなぁって一瞬思って、ピーって言う音を聞いていた。

皆んなでおばあちゃん!母さん!と呼びかけたけど、戻る事はなかった。

その後も、しばらく皆で話しかけて看送りました。

 

令和5年11月20日(月)午前11時56分 永眠