母のこと

終末期に入ってしまった母のこと

父の事 その①

私の父は、昭和15年戦時中生まれだ。

何だか秘密が多い人だった。

母とはお見合いで結婚したと聞いているけど、それも定かではない。

母と結婚した時には、既に父の両親は他界しており、一人っ子で親戚もおらず、本当に一人だった。

私の祖母に当たる人は、広島県世羅郡の家系で、父は岡山県倉敷市生まれである。

現在の美観地区辺りに家があったそうだけど、両親が亡くなり、賭け事で家を売ってしまったそうだ。

今そこに土地があれば、良かったのになぁと思うけど。

父は工業高校を出て造船所の工場勤務の後、独学で船舶の免許を取得して船乗りから、船長へとなる。

当時の船は、海軍上がりの人が乗っていた様で、軍隊の様だったと話してくれたことがある。

私が小さい頃は、外国船に乗ったりといない事が多かったらしい。

凄く厳しいというか、家でも船長で今で言うモラハラだったなぁ。

母はとても苦労したし、よく辛抱したと思う。

結婚した当時の給料は、母の姉が教員と結婚していたのだけど、その3倍あったのに賭け事でいつも使ってしまっていたと、母が愚痴っていた。

結局、自分で建てた家も、株で大損して手放す事になって、最後は中古マンションが残っただけ…まぁ船員年金で母は困らず施設に入る事が出来たので、終わりよければ全て良しかなぁ。

療養型病院・入院41日目(急性期から74日目)

令和5年11月19日(日)

この日は、妹と息子とで面会に行く予定が、病院から電話があり、集まれる家族は面会に来てくれとの事で、慌てて先に息子と病院へ。

呼吸も苦しそうで、目も閉じていない。

白目の所が内出血なのか黒い塊が両目にできているし、目頭が切れている。

看護師さんからは、午前中はまだ目で追っていたけれど、午後からは目の動きもないとの事。

だけど、呼びかけたらこちらを見る気はする。

爪も紫色になり、指先も冷たくなっている。

 

程なくして、妹や娘、甥とそのお嫁さん、私の夫も到着して、交代で面会させて貰う。

とりあえず、今日は17時に面会終わりなので、何かあれば連絡しますと言われ、仕方なく帰ることに。

 

母には頑張って!!また明日会いたいよと声かけて、病室を後にし、この日は、もう駄目かもしれないと、覚悟しました、

母さんが、心の準備の為に1度目は持ち直してくれて、再度また集めてくれた様に思いました。

今日は帰っても眠れないなぁと思いながら…

韓国ドラマ

母は、ゲームが苦手になってきた頃から、韓国ドラマにハマり出した。

イ・ビョンホンが好きになり、そこから始まりありとあらゆる韓国ドラマを見始めた。

GEOというレンタルビデオ店が近くにあり、せっせと日参していた。

レンタルカードで、借りたものを確認出来るので、ある日確認したところ、はっきりと覚えてないのだけど、凄く短い期間に千本以上借りていたのだ!

新作も旧作もお構いなしに!!

多分この店では、一位じゃないだろうか。

費用的にも驚いて、これはスカパーに入った方が良いなという事になり、早々にスカパーに加入した。

とにかく好きな物はとことん、ハマってしまう母だった。

療養型病院・入院40日目(急性期から73日目)

令和5年11月18日(土)

今日は、娘と甥と面会へ行く。

2人づつなので、1人で会いに。

今日は、昨日よりやや呼吸が苦しそうで、もう、目が閉じにくいのか時折少し開いてしまう。

酸素のアラームが鳴り続け、看護師さんが来てくれて、様子を見てくれた。

手足が冷たくなると、上手く反応しなくなるからと説明してもらった。

こんな感じで本人はどう思ってるのか、もう可哀想でと話すと、ご本人の意思で頑張られてるんですよと言って下さった。

そうなんや、ごめん母さん、頑張れがんばれって言うのも辛くなってきてたけど、母さんの意思なら、また頑張れっていうよ。

 

帰り際、また明日も会おうな、頑張って母さんと声を掛けた。

認知症の始まり

思えばおかしな事が、沢山あったのに。

母は、変わっているし天然だったので気付かなかった…

天然がすぎていたので、認知症もまるで気付かずに、可哀想な事をしてしまった。

ある日、油性マジックで眉毛を描いていた事があって、驚いて笑ってしまったのだけど、それすらおかしいと思わなかった。

昔、まだアイプチや、二重シールがない頃、セロハンテープを瞼に貼り付けていて、子供心に変なことするなーと思っていたりしたので、またか?と思ってしまった。

別の日には、母は人工肛門なのだけれど、何故か、生理用品を何個も貼り付けていた、漏れてしまうからと。

もっと前には、毎年、夏休みの子供たちの裁縫を手伝ってくれていたのが、全く出来なくなっていたり。

洗濯物を畳めなくなっていたのに、気付かなかった。

父の体調が悪くなり始め、母とも衝突し始めて、まだ誰も認知症と気付かずに。

私は父の事や、子育てと仕事で参っていて、手のかかり出した母を揺さぶって、私のお母さんやのに何でよ、お母さんやのにって泣いたりしてしまっていた。

きっと母は困惑していたに違いない。

ごめんよ、母さん、ほんとにごめんな。

療養型病院・入院39日目(急性期から72日目)

令和5年11月17日(金)

早退させてもらい、面会に行く。

毎回、爪を確認してしまう。

今日は紫色になっていて、心配になる。

医師がのぞいてくれて、聴診器を当てた後に、いつも手でおでこの熱を測るように、触って下さる。

30代半ばの、若いドクターだけど家族の気持ちにも寄り添って下さり、今日も心の中で感謝して深々と頭をさげました。

話せないし、殆ど寝ている時間も多くなったけれど、寂しいだろうから、テレビはつけさせて貰っていて、看護師さんも、毎日付けて下さっている。

よくして頂いて、感謝しかない。

最近は、良くなったら山口に帰ろうなぁと声をかける事にしている。

そうしたら、瞬きをしてくれるので、アイコンタクトをはかってくれている気がする。

母さんは、お世話好きな人だったから、お世話されるん気を遣ってるん違うやろか?って思ってしまう。

溺愛した私の息子

母には、娘2人と孫が4人。

その中で唯一の男の子が、今大学生の私の息子だ。

生まれた時から、それはもう溺愛してた。

他の孫も可愛がってはくれたけれど、別格だったようでした。

私は実家から徒歩3分の所に住んでいて、母が認知症を発症していたであろう、息子が中学生になる頃まで、ずっと息子を可愛がっていた。

私は働いていたので、幼稚園の頃から、夕方は実家におり、金土は実家に泊まり、小学6年生まで、母と一緒に寝ていました。

中学生になり、部活が忙しくて会えない日も、息子の好きなお菓子とジュースを毎日届けてくれていたね。

 

急性期の病院から療養型の病院に替わっても、私が行けない日も、息子は大学がない日は、1人で母に会いに行っています。

他の孫も、同じように心配はしているけど、働いていたり、中学生なのでなかなか会いにいけずだけど。

きっと母も喜んでいると思う、もうとっくに話せなくなってしまっているけど、大好きな孫が会いにきてくれる事。

母さん、親孝行なんて何も出来んかったけど、息子を産んだ事だけ唯一の親孝行やったかなぁ?