母のこと

終末期に入ってしまった母のこと

韓国ドラマ

母は、ゲームが苦手になってきた頃から、韓国ドラマにハマり出した。

イ・ビョンホンが好きになり、そこから始まりありとあらゆる韓国ドラマを見始めた。

GEOというレンタルビデオ店が近くにあり、せっせと日参していた。

レンタルカードで、借りたものを確認出来るので、ある日確認したところ、はっきりと覚えてないのだけど、凄く短い期間に千本以上借りていたのだ!

新作も旧作もお構いなしに!!

多分この店では、一位じゃないだろうか。

費用的にも驚いて、これはスカパーに入った方が良いなという事になり、早々にスカパーに加入した。

とにかく好きな物はとことん、ハマってしまう母だった。

療養型病院・入院40日目(急性期から73日目)

令和5年11月18日(土)

今日は、娘と甥と面会へ行く。

2人づつなので、1人で会いに。

今日は、昨日よりやや呼吸が苦しそうで、もう、目が閉じにくいのか時折少し開いてしまう。

酸素のアラームが鳴り続け、看護師さんが来てくれて、様子を見てくれた。

手足が冷たくなると、上手く反応しなくなるからと説明してもらった。

こんな感じで本人はどう思ってるのか、もう可哀想でと話すと、ご本人の意思で頑張られてるんですよと言って下さった。

そうなんや、ごめん母さん、頑張れがんばれって言うのも辛くなってきてたけど、母さんの意思なら、また頑張れっていうよ。

 

帰り際、また明日も会おうな、頑張って母さんと声を掛けた。

認知症の始まり

思えばおかしな事が、沢山あったのに。

母は、変わっているし天然だったので気付かなかった…

天然がすぎていたので、認知症もまるで気付かずに、可哀想な事をしてしまった。

ある日、油性マジックで眉毛を描いていた事があって、驚いて笑ってしまったのだけど、それすらおかしいと思わなかった。

昔、まだアイプチや、二重シールがない頃、セロハンテープを瞼に貼り付けていて、子供心に変なことするなーと思っていたりしたので、またか?と思ってしまった。

別の日には、母は人工肛門なのだけれど、何故か、生理用品を何個も貼り付けていた、漏れてしまうからと。

もっと前には、毎年、夏休みの子供たちの裁縫を手伝ってくれていたのが、全く出来なくなっていたり。

洗濯物を畳めなくなっていたのに、気付かなかった。

父の体調が悪くなり始め、母とも衝突し始めて、まだ誰も認知症と気付かずに。

私は父の事や、子育てと仕事で参っていて、手のかかり出した母を揺さぶって、私のお母さんやのに何でよ、お母さんやのにって泣いたりしてしまっていた。

きっと母は困惑していたに違いない。

ごめんよ、母さん、ほんとにごめんな。

凝り性の母

子供の頃、ルービックキューブが流行りだした。

私は興味もなく、もちろん妹も。

ある日、ルービックキューブの全ての面が揃っていた。

そう、母は独学でルービックキューブを攻略したのだ。

小学生だったと思うので、そんなには凄い事だと思わずに、へぇ〜位に思ってた。

コロナ禍、外に出るのもままならなくて、家族4人分、ルービックキューブを買ったのだけど、誰一人、全面揃える事が出来なくて、そのうち埃を被って、片隅に追いやられています。

改めて、母の凝り性に感服しました。

 

好きな事はとことん突き詰める人で、ゲームも大好きでした。

70過ぎまでは、任天堂のゲームに取り組んでいました。

マリオシリーズは全て攻略し、星も全部取って、それを何回もクリアしていたし。

ゼルダの伝説も大好きで、クリアしていました。

あつ森や、ピクミンも夜中迄やっていて、呆れ果てていたのに。

 

母さん、マリオの新しいゲーム面白そうやよ!

母が生まれた島

昭和16年5月に、山口県の小さな島で、腹違いの兄と、同じ母の三女として生まれました。

弟と妹が出来、6人兄弟でした。

兄や姉が生まれた頃は、祖父が船を持っており、裕福だったとの事ですが、母のすぐ上の姉からは、生活が苦しくなって行ったとの事。

祖父は、仕事もしながら兼業農家でした。

 

母は、少し変わっていて子供の頃の話をそんなにしてくれる訳でもなくて、私ももしかしたら覚えていないのかも知らないけど。

足がとても早かった事や、家の裏にたぬきが出て、狸汁にした事!狸の生息地として有名な島なので。

子供の頃は、まだ橋がかかっていなくて、本土に渡るのに、泳いで渡ってみたりしていた事。

そういえば、母からは聞いた事が無かったのだけど、祖母は小学校の先生をしていたと、6年位前に叔母に聞いてびっくり!

 

祖父母の家は、平屋で五右衛門で汲み取り式のトイレでした。

祖母が亡くなった、30年前までずっと薪でお風呂を沸かしていたし、餅つきの餅米は釜で炊いていました。

母は結婚して、私が5歳の時に父の仕事の都合で、関西に引越したので、50年関西に住んでいます。

認知症が進んで、グループホームへいる頃に、帰りたいと話す家は、山口の小さな島の事でした。

連れて帰ってやれば良かったと、凄く後悔してるねん、ごめんね母さん。

これまでの経緯

父の癌が発覚した、平成30年10月。

母が、認知症を発症していると診断される。

父の闘病もあり、まず老健でお世話になりました。

平成30年2月に、グループホームへ入所し、その後、令和2年に特養に。

また経緯はおいおい書いていこうと思う。

 

母が終末期を迎えて、母のこと忘れないように、書いておこうと思い立った。

母は現在82歳、まだまだ平均寿命まで生きてほしいよ。

時系列はばらばらだけど、思い出した順に書いていこう。

今はまだ、母のこと考えると、辛くて苦しくて悲しい。

母さん、少しでも長く生きていて。

 

 

誤嚥性肺炎

令和5年9月8日(金)

午前中に入居している施設から、発熱したので病院へ連れて行きますとの電話。

かかりつけの医院は、もしも入院となった時に病床が空いてないと言われ、地域の急性期の病院へ連れてきて貰った。

熱は高く、また入院なのかなぁと思っていたら、案の定でした。

誤嚥性肺炎の疑いとの事。

 

病室に入ったのが午後3時頃で、この時まで何も飲んでいなかったので、看護師さんにお願いして、とろみのついたお茶を飲ませてもらいました。

そして今思うと、この日に食べた朝食が、母さんの最後の食事になってしまった。